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軍神西住大尉が徐州の野に華と散ってから8ヶ月、その輝かしい戦功、偉大なる軍人精神は今われら一億国民の感激と崇敬の的となっているが、ここに掲げる原稿は西住大尉の当時の部隊長であった細見大佐が、昨年12月26日夜惜しい部下を偲ぶ切々たる情をこめて東京中央放送局からから全国に放送された軍神の思い出である。

西住大尉が戦死を致しましてちょうど7ヶ月、上司の指示によりましてただ今「マイク」の前に立ち大尉の思い出を語りますことは当時の部隊長として誠に意義ある事と存じます。
しかしながら西住の性質を知りまする私は、西住がこの事を欲していないのではないかと深く懸念する次第であります。これから後大尉の精神を顕彰して下されまする方々においてもよく西住大尉の本当の精神や性格を掴んで頂きたくお願いをいたします。

大尉は昨年8月戦車小隊長として出動、宝山城の戦闘を初陣として羅店鎮、大場鎮、南翔、南京の戦闘を経て本年春、徐州会戦において戦死したのであります。この間周家宅の激戦で戦車壕を突破して敵の広報陣地に殺到しましたことや、羅店鎮の手前で敵の砲兵陣地間近に突進いたしましたことや、その他白壁攻撃に敵を粉砕し、張家楼下宅の戦闘に敵の逆襲部隊のまっただ中に唯一車を以て躍り込み、大場鎮突破後の追撃戦に最先頭を以て蘇州河に進出し、南京の攻略戦に中華門外に奮戦いたしましたことなど、大尉の勇敢なる行動の思い出は誠に尽きないのであります。
その中、大尉のいかなる人物でありましたかをよく窺う事のできまする南翔馬路湾の戦闘の一部を申し上げます。

昨年10月31日、大尉は隊長代理として戦闘に参加しました。数線に堅固に守備する敵陣地に率先突入、歩兵の突撃を誘導しましたが、戦闘中日が暮れて戦車の戦闘は困難になりました。敵はこれに勢いを盛り返し、猛烈な射撃と肉迫攻撃とをいたしますので、味方の歩兵には死傷者が続出して、敵の第二線第三線への突撃はいよいよ困難になって参りました。
大尉はこの情況を見て、だんこ敵の陣内に踏みとどまって戦闘を持続したのであります。闇の中に活発に動く大尉の戦車は自然敵の目標となり、敵弾雨のごとく降り注ぎ、装甲鈑に命中する弾丸砕けて火花と散り、隣の戦車から見た大尉の戦車は、火柱のように見えたと兵隊が後で申しておりました。
今東京に送り返されてきました西住戦車の砲塔の右前の弾痕は、この時の疵であります。その中に大尉の戦車は敵の手榴弾の集中攻撃を受けて前照灯の所が破壊せられ、正面に大きな穴が開き、すこぶる危険になりましたので大尉は操縦手、射手の身を側方に寄せさせて、自分は戦車にぶらさがり、両肢を開いてなおも戦闘しかつ指揮したのであります。
この頃敵はますます増長し盛んに手榴弾を投ずるようになりましたので、大尉はついに敵兵を踏みつぶすに決心をいたし「蹂躙」「蹂躙」の命令を下しつつ、敵陣内を左右して指揮したのでありまして、誠に鬼神をも避けしむる壮烈なる場面であります。
その中に歩兵の攻撃も進捗しその一部を占領するに至りましたので、命令に依り陣内からいでまいりましたところが、このとき大尉は部下の一部の戦車がおらないのを発見しまして、直ちに自ら車外に跳び出し捜索しました。しかしながらいずれにしろ真っ暗な上に雨が降りしきり、敵弾は盛んに飛んでくる、それに四周には敵兵の号令や、わめき騒ぐ声が手に取るように聞こえる敵の中のことですから、なかなかに見つからない。
百方手段を尽くして、ようやく2時間位後に発見しました。一時方向を迷って、行方不明になった山根小隊長が到着しまするや、大尉は「山根来たか! おーよかった、よかった」と繰り返し堅く堅く山根の手を握って、後は涙で次の言葉が出ない。山根は「御心配かけました。小隊は無事後尾に到着いたしました」と報告はいたしましたが、これもまた感極まって泣いてしまったのであります。

午前1時頃と記憶いたします。大尉はようやく帰ってきました。陳家白墻という部落の不潔な支那家屋の中で待っていた私の所へ報告にきました。
「ローソク」の光に照らし出された大尉は雨のために頭からじっくり濡れて油と泥で汚れた顔には、戦車帽から流れるいくすじかの雨雫が光って、その充血した目とともにいかに本日の戦闘が悪戦苦闘であったかを一目に感ぜしむるものがあったのであります。
大尉は厳然と戦闘の情況、死傷者の報告を終えてから戦車帽を脱ぎ、雨の雫を打ち払いながら「どうも大変遅くなって御心配をかけました。今日はすぐ夜になって、射撃も運動もできなくなりましたが、歩兵が今晩中にあの陣地を獲らなければ明日は非常に苦戦するだろうと思うたり、また歩兵のあの苦労を見ては、どうしても引き上げる気にはなれなかったので、無理な戦闘とは思いましたが戦闘を続けました。歩兵が戦車、戦車と頼りにしていましたので、今頃は寂しがっているでしょう」などと申しておりました。
ふと気がつくと大尉は顔に、手の甲に、左脚に、敵の断片を受けて負傷しております。しかもこれに対しては「またやられました。脚は少し痛みますが、大したことはありません」などと、にこにこ笑って今までの緊張はいつの間にか解けて、炭火のそばで山根小隊行方不明の時のことなどを冗談を交えて話しながら負傷の手当てを受けました。翌日は板きれで作った下駄を履き、杖をついて、野戦病院に部下の重傷者を見舞い、終日枕辺にあって慰めていました。

西住大尉、西住大尉はこんな人物でありました。

次に大尉戦死の情況について申し述べます。
本年5月17日、大尉の属する高橋隊は、徐州戦宿県付近において敵を攻撃しましたが、敵前突然「クリーク」にぶつかりました。大尉は勇敢にも単身戦車から飛び出して偵察し、通過地点を発見しましたので、戦闘中の隊長戦車に向かって走っていきました。
この時です。敵の狙撃を受け、敵弾右内股に命中し衣囊に入れてありました時計(今私がまさにこの「マイク」の前に持ってきております時計、西住の血がなお残っています)を裏から表から貫いて動脈を破りました。大尉はついに畑中にどっと倒れました。
しかし気丈な大尉は近づく隊長に「負傷は軟部のようですから大丈夫です。部隊は左の方から敵を攻撃してください」と意見を述べ、戦車の中に運び込まれましたが出血はなはだしく、乗務員必死の手当ても及ばず、だんだん力が抜けて、再び立つあたわざるを自覚したのでありましょう。自分を介抱中の高松上等兵に、(これは西住の教育した初年兵です)「お前たちとわずか一年で別れるとは思わなかった。自分がいなくなっても平素自分が言っていた軍人の魂、軍人精神を基として、小隊長殿始め各幹部方の教えに従い、立派な軍人にならなくてはならん」と諭しております。
いよいよ死が目捷の間に迫りますや、自若少しも取り乱す事なく、次の最後の言葉を遺しました。当時戦車は轟々と、真っ暗な畑中を一意本部の位置に走っております。その中で、
「部隊長殿、隊長殿、西住はお先に満足して逝きます。しっかりやってください。御母様、小次郎はお先に逝きます。自分は満足しておりますが、御母様は御一人で淋しい事と思います。かわいがっていただきました。姉さん色々お世話になりました。弟ーーー立派に・・・」
なお言葉が若干ありますが既に力なく、また戦車の音で聞き取る事ができません。

天皇陛下万歳を三唱し奉り、後は一語なく、ついに常に精子を共にしたるその戦車の中で、まことに従容として名誉の終焉を遂げたのであります。
部隊の至宝西住は、壮烈なる戦死を遂げたのであります。年僅かに20余り5。ああ!

これより先私は、主力の戦闘を終えて夜9時頃帰ってきました。その時朝から高橋隊に連絡に出しておりました品川大尉が大急ぎで帰ってきました。人を払って特に小さい声で、西住重傷、ここに来るまで危ないらしいということを告げます。部隊としては重大なことであります。
戦車はなおも大尉の遺骸を乗せたまま、真っ暗な畑中を驀進に驀進を続け、落命後3、40分にして本部位置に到着いたしました。しかし既に親愛敬慕するわが西住大尉は去って呼べど答えずでありました。戦車から静かに外に出されて、眠る西住の遺骸の周囲にはたちまち隊の将兵が集まりましたが、あらゆる感情を抑えて唯唯黙して見守るばかりでした。敵襲、敵襲の報告を受けつつ敵弾の下に他の戦死者とともに西住の遺骸を守ったあの周大庄の一夜は、終世忘れることのできない思い出であります。

大尉は熊本県甲佐の人、故歩兵大尉西住三作氏の次男でありまして、陸軍士官学校第46期生であります。士官学校入校の時、既に今日あるを覚悟しておりました。ここに昭和8年1月父から(西住)小次郎宛の手紙があります。大尉が特に赤線を付しておる所を朗読いたします。
「進級などを目当てにしてはなりません。唯唯一途におのれが本分を尽くすという考えで学究奮励すればいいのです。もし将来戦死でもすればなお結構です。
私はお前さんが閣下になった時以上の満足を得るわけです。私を忘れて奉公の覚悟で奮励されるよう希望します。父より 小次郎」とあります。
出生前母堂に今度を生還期せざるを誓い、陣中左の二首を壁書して愛唱していました。

武夫の誉れなりけり大君の
御楯となりて朽ち果つるとも

親思ふ心に優る親心
今日のおとづれ何んと聞くらん

また、平素いつ戦死しても差し支えないように、身の回りを整頓してありましたことは、大尉の近くに起居した兵が感心しておりました。戦死後、行季を見まするに、30回に余る小隊の部下の功績は詳細に整理してありました。実に立派な覚悟で、従容死に就いた戦死の情況と思い合わせて、感慨深いものがあります。

ここに親愛景仰する西住大尉の英霊に対し、謹みて誠を捧げて講演を終わります。

写真左ページ下>
西住大尉戦死の報をきいた大尉の母が細見部隊長に宛てて送った書簡

第48号 昭和14年1月18日

目次

  • 広告「富国徴兵保険」
  • 大命を拝して 内閣総理大臣 平沼騏一郎(写真付き)
  • 八達嶺に立つ(写真短信)
  • 陸の艨艟 戦車隊 -陸軍戦車学校(写真短信)
  • 近代戦と戦車
  • 軍神西住大尉(写真記事)
  • 日本に生活を学ぶ支那の少女たち(写真短信)
  • 海外通信(写真短信)
  • 読者のカメラ(読者投稿写真)
  • 広告「ニッサンバス」
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【支那事変に軍神西住大尉散る!】撃ち抜かれた懐中時計【マンガみたいにはいかなかった。。。】

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